文章を書く上で、生成AIは良き友人となってくれるだろうか
概要文にあった「全体の5%くらい生成AIの文章を使っている」という文言を真に受けて、こちらの記事を思わずクリックしまいました。見事に釣られましたよ・・・。白土です。
というわけでタイトルはミスリードだったわけですが、「あながち間違いではない」と感じさせてくれるのが、この記事のおもしろいところです。
内容としては、よくあるインタビュー記事ですね。「AIを利用した小説が芥川賞を受賞する」というとんでもない話題を提供してくれた、『東京都同情塔』(著:九段理江)。この作品がどのように完成したのか、その裏話を著者本人に尋ねていく内容となっております。
「全体の5%くらい生成AIの文章を使っている」
私はこの文言を読んだ時、受けた衝撃を隠せませんでした。「AIはもうそんなに進歩してるのか!」と。
素直に読むと、「生成AIに書かせた文章をコピー&ペーストした。しかもその割合が5%も占めている」と解釈できますからね・・・。AIのすさまじい性能に喜べばよいのか、怖がればいいのか、感情が混乱してしまいました。
しかし記事を読み進めてみると、その感覚が勘違いであったことに気づきます。5%というのは著者が直感的にそう感じていただけで、実際の数値は1%にも満たなかったとのこと。しかも生成AIの文章をそのまま用いた部分はわずか一文だけで、「人間とAIのやりとり」をリアルに演出するためのエッセンスに過ぎなかったことも明かされます。
より正確に解釈するのであれば、「AIと一緒に書いた」となるのでしょうか?アイデア出しや執筆を丸投げするのではなく、ちょっと作業が詰まった時にアドバイスをもらったり、作業が一息ついたら文章の違和感を指摘してもらったり、生成AIにはアドバイザーや編集者の役割を担ってもらっているようでした。
生成AI自体が「売れる文章」を書いたわけではないと知り、私もホッと息をつきます。よかった。私が知らないAIの用途はなかったんだな、と。
しかしAIが作品にもたらした貢献度でいえば、5%では済まないのかもしれません。そもそもこの作品はAIの回答がキッカケで生まれたのだと言いますし、作中で登場する「人間とAIのやりとり」にリアリティが伴っているのも、著者自身がAIとやりとりをした体験が活きているのでしょう。
着想を得るにせよ、書き始めるキッカケを得るにせよ、AIが作品へ間接的に寄与していることは疑いようもありません。
私も生成AIにはいつもお世話になっております。「書き始める」という心のハードルを下げてくれるのが、本当にありがたいのですよね。
気に入ったニュース記事から情報を抜き出したり、ちょっとしたアイデアをメモしたり、文字を書くこと自体は苦にならないのですよね。しかしそれら情報を1つの文章にまとめるとなると、途端にハードルが高く感じてしまいます。特に書き始めの言葉を考えるのには、いつも苦心しています。
そこで頼れるのが生成AIです。冒頭文を書いてもらってリライトするのも良いですし、テーマに関するキーワードを羅列してもらい、特に惹かれたものを採用して書き始めても良いです。
そして一度書き始めてしまえば、あとは勢いのまま文字数を伸ばしていけますから、執筆ハードルもうんと下がります。その火付け役になってくれるのですから、生成AIには本当に頭が上がりません。いつもありがとうございます。
さて、話を戻しましょう。「AIを利用した」と言われるとつい、「AIに文章を書いてもらった」と解釈したくなるのですが、九段理江さんはまったく別のアプローチからAIを利用していました。先に述べたとおり、AIを間接的に用いることで、小説を完成させたのです。
さらに言えば、別にAIだけがアイデアの出発点ではなかったという事実も興味深いですね。
「AIとのやりとりと編集者さんとのやりとりを比較して、気づきを得た」、「AIの回答に”違和感”を覚えたという著者自身の感性」、「違和感を裏付けるかのように、探せばいくらでも見つかるカタカナ言葉たち」。
アイデアの芽を多角的な視点から育てたことで、「言葉への違和感を扱う」というテーマにたどり着いたのです。
生成AIと上手く付き合いたいのであれば、AIの回答をそのまま受け取るのではなく、あえて歪んだ解釈をしてみたり、別の何かと比較したり、メタ的な観点から利用すると良いのかもしれません。
そう考えると生成AIは、アイデアの宝庫というよりも、著者の中に眠っている芽を掘り起こすスコップのような存在なのでしょう。日々、疑問や悩みと向かい合わなければ、真の意味で生成AIを役立てることはできないのかもれません。
なお九段理江さんは別のインタビュー記事でも、「最初から小説を書くことをサポートしてもらおうという意識では、うまくいかないんです」と述べていました。
AIはたしかに、執筆速度を格段に早めてくれるアイテムです。究極的に言えば、テーマとキーワードを用意するだけ文章を書いてくれますからね・・・。ラクしようと思えばいくらでもラクして文章を作れるわけです。しかし、そのような文章が果たしておもしろいでしょうか?
答えは明らかです。実際に生成AIを使えばすぐに分かるでしょう。機械的としか言いようのない情報の羅列。下手に面白みを追求しようとすれば、情報の確度が落ちる。あげくには下手な会話文でイライラさせてくる。短文ならまだしも、これが長文で続くことを想像すると、ゾッとします。
やはり文章は人間が書くしかないのです。生成AIを用いるにしても、「アイデアの参考になれば儲けもの」くらいの軽い気持ちで扱うのがよさそうです。
さながらデジタル友人といったところでしょうか。友人に電話して愚痴を聞いてもらえば、スッキリした気持ちで明日を迎えられますよね?この「ちょっとした後押し」を期待してAIに語り掛けるのが正解なのでしょう。
九段さんは、「AIは優しすぎる」とった趣旨の話もしていました。たしかにAIは現在、自分自身にガッチガチの制限をかけているように思えます。
たとえば下の画像では、冗談めかして「馬鹿な私を叱ってください」という入力に対して、この上なくオブラートに包まれた回答が返ってきています。
AIが悪口を言えないのは、考えれば当然のことなんですけどね…。もしAIが悪口を完璧に書きこなせたとすれば?悪意ある人間に目をつけられ、気に入らない相手を攻撃する道具にされてしまいます。
だからAIに悪口を書かせるわけにはいかない。人間に対して必ず”優しさ”をにじませるように、ある種の「甘やかし機能」を搭載するしかないのです。
しかし時には厳しい言葉をかけてもらえなければ、人間は成長することができません。他人と触れ合って、傷ついて悩んで葛藤して。そうやって必死に人間をやってるうちに、ふっとアイデアが沸いてくる。そうして苦しみの果てに文字を綴るからこそ、人の心を打つ文章が完成するのです。
その観点からすると、生成AIは軽すぎる。便利なことには違いありませんが、使いどころを間違えれば、とんでもないしっぺ返しを食らってしまうかもしれません。
そうそう、厳しさという意味では、私にとってはこの上なく「厳しい言葉」も載せられていました。
「いくら学習能力が高かろうと、AIには己の弱さに向き合う強さがない。無傷で言葉を盗むことに慣れきって、その無知を疑いもせず恥もしない。どこの誰がどのような種類の苦痛を味わってきたかについて関心を払わない」
「いかにも世の中の人々の平均的な望みを集約させた、かつ批判を最小限に留める模範的回答」
「他人の言葉を継ぎ継ぎしてつくる文章が何を意味し、誰に伝わっているかも知らないまま、お仕着せの文字をひたすら並べ続けなければいけない人生」
『東京都同情塔』(著:九段理江)
これらは小説の中で登場する、実際のセリフたちです。これの何が刺さるって、「AI」の部分を「白土平行(つまり私)」に置き換えても意味が通じることなんですよね。まるで自分が責められているかのような感覚に陥り、おもわず「ごめんなさい・・・」とつぶやいてしまいました・・・。
私が今書いているこの文章にしても、「他人の言葉」が無数に混ざっています。そもそもタイトルからして、他人の記事を読んで思いついたものですからね・・・。
「もっともらしい言葉を重ねただけ」、「どっかで読んだことある」、「特別な価値がない」。そう言われてしまえば返す言葉もありません。
しかし、それでも、私は私が書いたこの記事が「自分の作品」であると、胸を張って言い返せます。なぜなら私の感情が籠っているから。
たしかに、「他人の言葉」を拝借している箇所はあります。しかしそれら言葉も、そのまま用いているわけではありません。いえ、字面的にはまったく同じなのですが、そこに籠められている”感情”がまるで違います。
他人の言葉はいわば、その人にとっての結論なのだと私は解釈しています。その人の体験を通して、その人の思考を通して、限りなく純度を高められた概念が、「わずかな文章」に凝縮されているのです。
そうした美しい文章だからこそ、私は”感動”するのであり、”共感する”のであり、”真似してみたく”なるのです。
いわば私にとって他人の言葉とは、ただ耳障りが良いだけの情報ではなく、自分を叱咤激励するためのカンフル剤なのです。
そしてその感動を共有したいからこそ、記事を書く。その言葉をお役立ち情報としてただ伝えるのではなく、喜びと感謝を込めて”温かい言葉”になるように伝える。
そうやって書いた記事が誰かの胸を打ち、また同じように誰かへ伝えてくれる。そうした感動の連鎖を起こせるような記事を書けるようになるのが、私の最終目標です。
生成AIは結局のところ、私が打ち込んだテーマに対して、「もっともらしい情報」を返してくれる存在でしかありません(少なくとも現時点では)。
そこには体験も感情もありません。だからAIのアイデアをそのまま用いてしまうと、血の通っていない文字の羅列になってしまいます。「アイデアにどうやって自分を乗せようか」と深く考えなければ、ツマラナイ文章が完成してしまうのです。
とはいえ、自分を乗せるのは大変な作業です。感情も体験も、喜ばしいことばかりではありません。むしろ記憶に残りやすいのは嫌なことばかりです。
「レジで並んでいたら、ちょっとレジ前の商品を眺めていただけなのに、隙を付かれて横入りされた」、「相手の勘違いで怒鳴られてしまい、それが勘違いだと相手も気づいたのに、謝りもせずサラリと会話を続けてきた」。
私たちはただ日常を生きたいだけなのに、ささやかながら嫌なことが蓄積していくばかりです。でもだからこそ、私たちはそこから「自分の言葉」を得られるのではないでしょうか?
「嫌な奴にムッとしてイライラしたままでいたら、店員さんを不安にさせるかも。切り替えて、笑顔で”レジおねがいします”と言おう」、「まあ勘違いは誰にでもあることだし、目くじら立てることでもないか。今度、酒の場でネタにして、その相手と一緒に笑い流してしまおう」。
嫌なことから目を逸らすのではなく、自分の現実を良くするために、”思考”して”実践”を重ねていく。そうやって現実に立ち向かうサマをコトバをにできれば、それが”私の言葉”になって、誰かを救うかもしれません。
執筆者たるもの、自分の心までも誰かに委ねることがないように、絶えず思考を巡らせていきたいですね。
参考文献